4.26.2013

018_火星の人類学者_02

キッチンにはばかばかしいほど具体的で細かい料理やテーブルセッティング、皿洗いについての指示が貼ってあった。その貼り紙は、台所仕事が決まった儀式的な方法でなされなければならぬということを伝えていた(あとで知ったのだが、これは身内だけの自閉症のジョークだった)。ミセスBは自分のことを「正常とのボーダーライン」にいると言い、その「ボーダーライン」とは何を意味するかを明確に説明した。「私たちは『正常な』ルールやしきたりを知っていますが、そちらの世界へ移ったのではありません。正常に行動し、ルールを学び、それに従いますが、でも..」
「人間行動の模範を学習するのです」と彼女の夫が口を挟んだ。「私には今でも、社会的なしきたりの奥に何があるのか、理解出来ません。表面的には従いますが、しかし..」

..だが、この種のシュミレーションや具体的なイメージは、ほかの種類の思考、たとえば象徴的思考、あるいは概念的、抽象的な思考には適さない。「転石苔を生ぜず」ということわざを理解するために、「岩が転がる場面のビデオを再生し、そこから苔をそぎ落とさなければ、意味を考えられないのです」

いいえ、と彼女は答えた。自分は独身で、一度もデイトをしたことがない。そうしたつきあいは複雑すぎて手に負えないし、当惑するばかりだ。彼女は聞いた言葉がなにを意味するのか、どんな含意があるのか、なにを求められ、期待されているのか、どうしても理解できない。そんなとき、ひとがどういうつもりなのか、なにを仮定し、あるいは前提としているのか、どんな意図を持っているのか、わからなくなる。こえrは自閉症に共通したことで、そのために性的な感情をもってはいても、デイトや性的関係がうまくいかないのだと彼女は言った。

「わたしの記憶には抑圧されたファイルはありません」と彼女は断言した .. 扁桃核は海馬のファイルを閉ざしますが、わたしの場合、扁桃核は海馬のファイルを閉ざすほど激しい感情を呼び起こさないのです」

火星の人類学者 オリヴァー・サックス著・吉田利子訳

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