12.31.2013

迷いの始まり

曹洞宗御誕生寺―二度座禅に行ったことがあります―の板橋住職よりお送りいただいた冊子に、とても興味深い文章を拝見しました。短いので全文を。

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私は現在、多くの修行僧と共に座禅しながら、心ゆたかに暮らしている。
座禅とは一体何であろうか。足を組み背筋を伸ばし、下腹部で静かに息をしていると、自然に身も心もすこやかになるのを実感する。
これは、大脳生理学の面からも実証されつつある。
私たちは、自分の意志に関係なく、母親の胎内から生まれ出て、自然に息づいている「生命体」である。「いのち」そのものである。
ものごごろがつくようになって、他の生命体を意識するようになる。そこに「自分」とか「私」という自我意識が芽生えてくる。
これが人間の迷いの始まりである。「私のお菓子」とか「自分のおもちゃ」とか、自分中心にものを見たがる。
「私が大人になった」とか、「私が病気になった」というが、これは錯覚である。私と関係なく成長もし、自分の思いとは関係なく病気になり、息をひきとるときもある。
「私が花を見た」というが、「見た」と意識する前に、すでに「見えている」のが事実である。「鳥の声を聞いた」というが、そのように自覚する前に、すでに「聞こえている」のが事実である。
人間だけが「コトバ」を使って「考える」ことを覚えた生きものといえよう。過ぎ去ったこと、未来のこと、死んでからのことまで想像する。このために、人間社会にだけ「文明」が進歩した。
だがしかし、人間だけが考えすぎてノイローゼにもなり、自殺までする。人間以外の動物で、自分の意志で死ぬことがあるだろうか。
そこで私は結論的にいいたい。私たちは、頭のなかでいろいろ考えながら生活するよりも、「からだが実感」していることに関心をおくべきだと。「からだの実感」がそのまま「いのちの実感」なのである。

板橋興宗(1998-2003總持寺貫首、曹洞宗管長、現御誕生寺住職)

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われわれの知覚する現象とは、世界の記述方法の無限のバリエーションのたったひとつであり、さらにそれを恣意的にフォーマットされた脳の、エゴイスティックなロジックによって意味付けた形骸に過ぎません。現象のひとつひとつに隣接する現象との関係を記号化した意味付けを行い、壮大な「世界」を築きあげて、その"中"でわれわれは生きています。「世界」の"外"は、記号化されていないので知覚されることはなく、すくなくとも、われわれはそれを知覚出来ない、あるいは存在しないと思っています。"外"はわれわれのとてもすぐそばにあり、本当はそれが見えているし聞こえているし、触ることも嗅ぐことも出来るというのがこの文章の意味するところです。ただし、「記号化」というプロセスを経ずに"外"を認識することは非常に困難で、これを達成するために、ヒンドゥー教や仏教の僧は長い歳月を瞑想(座禅)に費やします。

言及すべきなのは、ここでいう「現象の知覚」には、「能動的な動作」の認識が含まれることです。「私」が「動作」をコントロールしているというのは幻想で、神経系に直結した筋肉がわれわれの幻想するところの「秩序」を無視して、自由自在かつ生物学的な的確さで「現象」に対処し、一瞬遅れてそのフィードバックを受け取った「脳」が、そのことに「"自分"が出した指令によって引き起こされた動作」という虚構の意味付けを与えていると考えるのが正解です。

「だってこうやって息をしたりゴハンを食べているのは"自分"」という、"自分"という虚構の概念を守るためにわれわれが口にするロジックは、最新の脳科学によってすでに否定されています(参照:http://p.tl/0nIq)。

この宿命的な「ねじれ」から解放されて、一瞬でも原初の世界に身を委ねることの底知れない穏やかさは、アーサナによって時おりもたらされる説明不可能な安心感によって体験することが出来ます。

ghostwriter