5.16.2013

釈迦に説法

釈迦に説法 玄侑宗久著 に関する、うちこヨガブログ記事より。

オウム真理教の見かたも実に鋭い。
 オウムへ走った人が惑溺したその魅力は、おそらく宗教のもつ肉体性だろうと思う。つまり自分の肉体と向き合い、ある限界を超えようとする行為が、宗教には必ずある。そこで人は、ある種の恍惚へと導かれるのである。その状態が「解脱」と言われたり「祓い清められた」状態とされたり「他力」の風が吹いたと解放されたりする。言葉は違っても、いずれ論理や言葉が届かない状態のことである。そうした体験が少年時代にあれば、彼らもあれほどあっさりオウムの虜にはならなかったのではないかと思う。オウムには実に周到なシステムがあった。五体投地・坐禅・唱え文句・さらに水中クンバカなど、二重三重に恍惚へと導く方法が用意されていたのである。
 自分の体が恍惚を生むということを知らなかった青年たちが、いわばそのことに目覚めて抜けだせなくなったのがオウムだったのではないだろうか?(P114)
本当にそうだと思います。運動不足の背景が圧倒的に追い風だった。わたしは30歳を過ぎてからヨガをはじめたのだけど、ハマった理由は、高校時代にソフトボールでショートバウンドが見なくても捕れるようになったときと同じような、恐怖を乗り越える無意識の範囲にある能力を開発された気がしたから。ヨガを続けていくとき、「ああ、あのときの、あの感じ」と思う引用元があるのとないのとでは、状況は別もの。

オウム真理教について、書物に残っている彼らの教義が比較的稚拙であるにもかかわらず、高学歴者を含む、聡明であるべき信者の洗脳が完成された理由について(肩すかしなことに)、アーサナやプラナヤマによって信者の身体や意識に起こる、未体験で想像を超えた変化を、教祖が予言または効果的な意味付けをしたことを挙げる文章を目にすることが多い(吉本隆明も同じようなことを書いている)。そもそも小乗仏教やヒンドゥー教では現象世界に対して作用をおよぼすことを停止することが教義なので、オウム真理教の行いは本来的なものではないこともポイント。

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