5.14.2013

25_進化しすぎた脳 池谷裕二


意識を測定するためには、人を椅子に座らせて、ボタンを与えて「好きなときにボタンを押してください」という実験が出来るね。つまり、ボタンを押しているときの脳の活動を測ればいい。
好きなときにボタンを押すんだから、これは明らかに自由意志でしょ?だから、普通に考えると「ボタンを押そう」という意識があらわれて、それから手が動いて「ボタンを押す」という行動になると予想できるよね。研究者のだれもが実際にそう思ったの。ところが、答えは違ったんだ、「好きなときにボタンを押す」という、もっとも単純な行動が、なんと自由意志じゃなかった。
脳波をモニターしながら脳の活動を調べると、答えは先に「運動前野」という運動をプログラムするところから動き始めて、そらからなんと1秒ほども経ってから「動かそう」という意識が現れたんだ、つまり、脳のほうが先に動き始めようとしてたってこと。
→その「動かそう」と思ったのは無意識なんですか。
ということになるよね。だって、「動かそう」と思った瞬間には、もうとっくに動く準備を脳は始めていたんだから。この実験ってもっともシンプルだよね。「好きなときに押せ」っていうんだから、これ以上単純な意識の実験はあり得ない。そんな行動ですらもなんと無意識にスタートしている。「動かそう」と脳が準備を始めてから「動かそう」というクオリアが生まれるんだ、あ、厳密にいえば「『動かそう』と自分では思っている」クオリアだ。だって、体を自分の意識でコントロールしているつもりになっているだけで、実際には違うんだから。つまり、自由意志というのはじつのところ潜在意識の奴隷にすぎないんだ。
こんな事実だから、クオリアというのは脳の活動を決めているものではなくて、脳の副産物にほかならないことがわかる。「動かそう」というクオリアがまず生まれて、それで体が動いてボタンを押すのではなくて、まずは無意識で神経が活動し始めて、その無意識の神経活動が手の運動を促して「ボタンを押す」という行動を生み出すとともに、その一方でクオリア、つまり「押そう」という意識や感覚を脳に生み出しているってわけだ。

「進化しすぎた脳」 池谷裕二著


もう何度このブログに登場したかわかりませんが、名著「進化しすぎた脳」。インドに持っていった数少ない本の一冊。帰路ネパールで他の本と交換してしまいましたが、図書館にいくらでもある。ヨガ論文にこれを出すと、話がややこしくなるのですが、話をややこしくしたいという抑えきれない衝動を抑えないことにして、借りてきました。

「自由意志の否定」という言い回しは、この議論の本質を誤解させる便宜的なものであり、より正確には、われわれが身体の随意挙動のコントロール主だと考えているもの、司令塔としての「意識」は存在せず、意識の彼方にあって、意識よりも早く身体に司令を出している無意識があり、われわれが「意思決定」だと考えているものは、既に発せられた司令を(そうとは気づかずに)後から説明する行為にすぎない。したがって、この説明行為は、知覚や認識におけるクオリアと同じ種類のものである。われわれの「意識」は身体に司令を出す自由を持たないのである。

ghostwriter