6.24.2014

自己受容


岸見:自分に価値があると思えるときに、人は勇気を持てる、というふうにアドラーは言うわけです。なんの勇気かというと、対人関係にとけ込む勇気。でも自分に価値があると思えない人は、他者の中に入っていこうとしないわけです。自分に価値があると思って欲しい、つまりその文脈で説明するとね、どういうときに自分に価値があると思えるかっていうとね、共同体に貢献していると思えるとき、なんですね。
神保:自分に価値があるとなかなか思えない人は、どうしたら?
岸見:難しいんですよ。自分に価値があると思ってはいけない人がいるんですよ。自分に価値があると思ったら、人との関係の中に入って行かないと置けないんですよ。それは症状として出ることもありますね、例えば、赤面症という症状があるから、わたしは男の人とつきあうことが出来ないっていうね、そういう人は実は自分が価値があると思っては、都合が悪い。赤面症ということを理由に他人と関係を持たずにいれば、たとえば自分の気持ちを打ち明けたときに、それを否定されるというふうな経験すらしなくて済むでしょう?でも、自分て結構素敵だな、と思ったら、まあ例えば親しい男性が出来るわけです、でもその人は別人格だから、自分が自分の気持ちを打ち明けたからといって、あなたのことを好きなんだ、と言ってくれる保証はないわけです。だからそういうことを経験するくらいだったら、最初から人と関わらないでおこう、そのためには、自分に価値があってはいけない、と思ってるんですよ。結構厄介は厄介です。
ですから、そういう人たちは「うっかり」自分のことを好きになって欲しいので、他者貢献というところでなんとかできないかなと思ってアポローチするんです。だから自分って結構役に立ってるんだなって、恋愛のこととはね、別のところで自分には価値があるって「うっかり」思って欲しい、その援助は(セラピストとして)しますけどね。
神保:この他者貢献っていうのは、具体的にどんなイメージですか?どんなことをすると、まず自分が他者貢献が出来ていると感じられて、それで、それが結局自己受容につながると。
岸見:そうですね、あんまり考えたことがないような切り口ですけども、そうですね、行為のレベルだとよくわかります。誰かに役に立つとか。
神保:いわゆる人助けみたいなことですか?
岸見:まあまあそんなことを含めてね。自分が何かをしたら喜んでもらえたとか。まあそういうことです。ただ、もうひとつあってね、存在のレベルで貢献するということもある。たとえばぼくなんか病気になったらよくわかるんです、まったく身動き取れないじゃないですか。寝たきりのこんな状態でも、なお人の役に立ててるって思える次元での他者貢献っていうのがある。だれでも、実はそのレベルで貢献出来るんだってことを感じて欲しいんです。
神保:自分がいるだけで。
岸見:そう。かなり勇気がいりますよね。自分が何かしてるから他者に役に立てているんだって思うのは容易ですけど、なんにも出来ないけど。でもそういうふうに思わない人はね、逆に言えば、ほかの人を判断するときに、行為のレベルでしか価値判断してないんです。あの人は役立たずだとか。なにも生産性に貢献していないってことで切り捨ててしまうひとになるわけでしょ?
神保:ということは、行為のレベルでひとで人を判断するってことは、かならずしも良くないってこと?
岸見:良いんだけど、それだけではない。
宮代:E.H.エリクソンという人のね、「基礎的信頼」という概念があって、その概念がいま岸見先生がおっっしゃったことと重なるんですよね。つまり、なにをしたからじゃなくて、つまり条件付き承認とは無関係に、無条件で、なにをしたかとは関係なく、自分はOKだと思えること、で、このベーシックトラストを持っていない人間は、まずどうなるかというと、そのトラストのなさを埋め合わせるために、ただ過剰同調が生じる、つまり他者に迎合して、あるいは他者の目標を自分の目標とすることによって、承認、ね、まあ嫌われないでおこうというふうに思うわけです。そういう意味では、自立における基本的な条件は、自分はOKという基礎的な真理、つまり存在そのものにおける肯定っていうことですよね。

www.videonews.com 2014.6.21 http://goo.gl/H6Sp2Y

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