1.07.2016

ハードランディング覚悟のダイブ

南直哉:悟りなんてのは、ある経験を絶対化して、これぞ真理だ、みたいな言い方をすると間違いなんです。ただその、わたしが思うのは、ある普段の日常の自分のありようを、一挙に相対化する視点というのはあるんです。それを坐禅によって作りだすことは可能なんです。人間の意識状態いうのは、身体のありようと密接に関係してるんですから。身体にある操作を加えると、人間は意識のレベルが全然切り替わっちゃうんですよ。日常私たちがわたしとか自分とかって使ってる意識、自意識ね、これはものすごくもろいんです。これはある身体操作をすればぶっ壊れてしまう。オウムがあつかったのはそこなんです。で、オウムがまずいのは、ある経験を絶対化してこれぞ真理だみたいに埋め込むんです。わたしに言わせればそれはある操作をした結果にすぎない。意味があるとすれば、それは日常に自意識が崩れるということです。つまり、自意識はもろい。わたしという存在、堅固だと思っているわたしは実はもろい構造しか持っていない、ということが一発でわかるときはある。

南直哉:.. 坐禅が深くなっていくと、まずその、五感が混じってくるんです。普通統合されてるわけですよ、知覚っていうのは。視覚とか触覚っていうのは。それがごちゃ混ぜになってくるんです。全体の感覚が点滅してるみたいな、バイブレーションがかかってるみたいな状態になります。それと、カラダのウチとソトというイメージが崩れちゃうんです。つまり、足痛いなーとおもっても、足がそのへんにあるような気になっちゃうんです。だからなにか音が聞こえてきても、アタマのなかで響いてるのか、外側で響いてるのか、全然わからないんです .. 大事なのは、普通、わたしが音を聴くとか、わたしがあなたを見るという、この感覚と、行為構造っていうんですか、わたしのあり方の構造が、一挙に崩れるということはあるんです。だから、自意識というのは一定の条件、さっきの縁起ですわ。一定の条件下でしか存在しないんです .. つまり、ある体験があるということと、ある体験を語るということは別なんです。

南直哉×茂木健一郎 00:85:00 あたりから。

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