「自分」とは、「誰が」の問いに対する答えになるような何者かではない。それは、「人間」と呼ばれるあるものが、存在するときに必要な器にすぎない。そのようにしか生きることが出来ない形にすぎない。そして、「自分」という形で生きざるを得ない存在を「人間」と呼ぶに過ぎない。
あるということも、生きるということも、今ということも、ここということも、この世界がこのようであるということも、"自分"という形でしかこの世には訪れない。だが、眼を開け。それは、あるだけであり、生きるだけであり、今だけであり、ここだけであり、世界であるだけだ。"自分"ではない。
友よ、耐えるのだ。そのようにしか生は我々にやって来ない。「自分は自分ではない」、ならば「自分」を作らなければならない。水を飲む器を作らなければならない。人が生きるとはそのことだ。人が水を飲むとはそういうことだ。その重荷を引き受ける。生きることが尊いのではない。生きることを引き受けることが尊いのだ。
どうして?
引き受けなくてもいいからだ。
「老師と少年」 南直哉
あるということも、生きるということも、今ということも、ここということも、この世界がこのようであるということも、"自分"という形でしかこの世には訪れない。だが、眼を開け。それは、あるだけであり、生きるだけであり、今だけであり、ここだけであり、世界であるだけだ。"自分"ではない。
友よ、耐えるのだ。そのようにしか生は我々にやって来ない。「自分は自分ではない」、ならば「自分」を作らなければならない。水を飲む器を作らなければならない。人が生きるとはそのことだ。人が水を飲むとはそういうことだ。その重荷を引き受ける。生きることが尊いのではない。生きることを引き受けることが尊いのだ。
どうして?
引き受けなくてもいいからだ。
「老師と少年」 南直哉