..わたしがよく相談受けてくるのは、これは中年の男に多いですね。いきなりその、飛び込んで来て、坐禅させてくださいとか言って、「わたしは真実を知りたいから坐禅しに来ました」みたいなことを言う中年の男はたいてい目的が違うんです。違うことを隠してる。よく覚えてる例は、とにかく「わたしは宗教の真理を知りたくて坐禅に来ました」っておかしなことを言うなって思って「宗教の真理はいいけど、なんであなたは今頃そんなことを言うの?」って訊いたら「いや、この世の中にいろいろ宗教があるからどれがいいかと思って」って言うから、「それは分かったから、なぜ、あなたは今それが知りたいんだ」って言ったら、「女房が新興宗教に入っちゃった」って言うんですよ。それで「仏壇捨てる」って言うんですね。「仏壇捨てて、娘も新興宗教に入れようとするから、困ったから」って言うんですね。「ぼくは永平寺で修行をして、正しい宗教を知って、女房を説得したい」なんてわけのわかんないことを言うから「あなたね、そんなことして、新興宗教に入ったあなたの嫁さんが、たかだか三日永平寺で修行した理屈で説得出来るか」って言うんですよ。これは話が違う。本当は違うんです。本当はこれは家庭内の、夫婦関係の問題なんです。寂しいんです、奥さん。聞いてりゃ分かるんです。「まあそりゃいい。教えてくれ」と言うんです。「最近ウチで何杯ごはんを食べたか」と訊くんです。こういうのはね、大きい企業の部長か、中小企業の取締役くらいの人に多いんですわ。食べてないんです、ウチで。思い出せないんです、いつウチでごはん食べたか。娘ふたりいるって言うから、じゃあいつ奥さんと娘さんのことを話したかって言うと、これは思い出せないんです。いつしたか。奥さん寂しいわけです。わたし言ったですよ。「あなたそんなこと言うんだったら、仏壇がそんなに大事だったら、最近線香あげたか」って言うと「いやあげてない」っていうんですよ。「じゃ帰って、朝晩線香あげて、この仏壇はぼくらにとって大事だから捨てないでねって言え」って言うんです。「ウチへ帰って、奥さんとお子さんの話をしたり、コミュニケーションをとるのが先で、こんなところで坐禅をして真理を知りたいなんて言うのは後の話ですわ」
この種の錯覚から解けてもらわないとけない。なにがそこで起こっているのか。仏教では如実知見っていいますけどね。実のごとく見る、って言うんですよ。自分の置かれた立場をちゃんと見るっていうのは難しいんですよ。そういうものを見る目っていうのを、視点っていうのを、どっかに確保しなきゃいけない。仏教っていうのはね、そういう視点になりうるんですよ。日常生活のルールや秩序とは違う場所に視点を確保して、それで見なきゃいけない。
podcast 茂木健一×南直哉対談(の南直哉発言)より。http://goo.gl/FI0ywJ
ghostwriter
ghostwriter